週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

海福寺 今も残る 九層の塔

 目黒不動周辺には、珍しい名前の蛸薬師の他にも見どころが多い。山手通りからお不動さまに向かう道の北側台地上の海福寺は、隠元豆を日本にもたらしたといわれる中国・明の隠元禅師が万冶元年(1658)深川に創建した黄檗宗の寺で、明治43年に下目黒の現在地に移ってきた。

 境内には、石造の九層の塔が建っている。その昔、武田信玄の屋形にあったと伝えられる珍品で、『江戸名所図会』はその図まで載せて「寺境池のかたはらにあり。高さは一丈ばかりの石の塔也。相伝ふ、武田信玄のものなりと。むかし土屋氏某これを持ち伝へしが、当寺へうつし建つるといへり」と紹介している。

 『図会』の記載は、当然海福寺が深川寺町通り(現江東区深川2丁目付近)にあったときのものだが、塔のことは寺の挿絵の書き込みにも「武田信玄の持つたへたりと云石の塔壱基堂前池の傍にあり」とある。昔から、海福寺といえば九層の塔というほどの存在だったのだろう。

 きざはし脇には「永代橋沈溺横死諸亡霊塔」と刻まれた宝筺印塔が建っている。文化4年(1807)8月19日の永代橋落橋事故での犠牲者を弔うための供養塔である。

 この日は、深川・富岡八幡のお祭りだった。当時、同八幡のお祭りは一年おきだったが、寛政7年の本祭りのときに喧嘩があって幕府から開催禁止処分を受けた。

 それが12年振りに開催を許され、江戸中に八幡祭りの人気が高まった上に祭りの期日が雨で延び延びになっていたからたまらない。待ちかねていたお祭り好きがどっと押しかけた結果、老朽化が進んでいた永代橋が崩れ400人以上もの死者を出してしまった。

 塔は、いうまでもなく寺が深川にあったとき建てられたもので、都の文化財に指定されている。

(掲載号:02月07日号)