週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

古城と 世田谷 の地名

 東急世田谷線の上町から北へ城山通りを歩く。300メートルほどで、世田谷城址公園の前に出る。室町時代の世田谷吉良氏の居城跡である。

 入口に東京市が開発由来を述べたい古い石碑がある。

 <世田ヶ谷城ハ室町時代足利管領ノ麾下ニテ権勢関東ニ響キシ吉良冶部大輔冶家ノ居城ナリ。(中略)此ノ公園地ハ世田ヶ谷城址ノ一部ニシテ、往古ノ遺構尚存シ史蹟トシテ保存宣揚サルベキモノナルヲ以テ、昭和15年1月東京横浜電鉄株式会社ヨリ千六拾九坪余ノ提供ヲ受ケ史蹟保存ノ公園ヲ開設スルコトトセリ>

 ものものしい表現のなかに土地面積が明示してあって参考になる。吉良冶家は、愛知県吉良町出身の吉良氏の分流で、奥州を経て上州飽間(群馬県安中市)に根拠を定め、さらに世田谷に所領を得て世田谷吉良氏の祖となった人。世田谷吉良氏は14世紀から16世紀末まで8代200年あまり続き、世田谷殿とか世田谷御所と呼ばれている。

 城址に立って世田谷御所を想像するのは難しいが、北側に接する豪徳寺の丘を背にした豪族の居館だったらしい。空濠のあとが残り、本曲輪、西曲輪、南曲輪などの小山がるが、江戸時代のような天守閣はなかったという。中世の山城から、平野に威容を誇る平城へ移行する過度期の平山城である。

 明治初年の記録には「古城山御林跡」が約6千坪(2万平方メートル)とあり、往時は豪徳寺近辺から烏山川(いまの烏山川緑道)を含む一帯と推定されている。

 世田谷の地名は、瀬田(武蔵国瀬田郷)の谷地の意で、世田谷戸の略から出ているという。世田谷城はそれほどの要害ではなかったにしても、周囲は多摩川水系の河川、豊富な湧水に恵まれており、守るによく、攻めるには難しい平山城だった。

(掲載号:02月21日号)