週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

桜田門で 御領主様 の大変

 万延元年(1860)3月3日、幕府の大老井伊直弼が発城の途中、桜田門外で水戸と薩摩の浪士ら18人に襲われ、暗殺された。

 直弼は水戸藩主の不穏な動きについて事前に警告を受け、周囲の警備を厳重にするように勧められていたが、諸侯の従士の数は幕府の定めるところで大老がそれを破ることはできないと言って、取り上げなかった。

 3月3日は早暁から寒風とともに激しい雪になった。吉田常吉『井伊直弼』によると「供廻りの従士以下26人、足軽・草履取・駕籠舁・馬夫など総勢60余人」とあり、武士は26人だったようである。なかには腕利きもいたが、あいにくの雪で全員が雨合羽を付け、刀には雨水がしみ込まないように柄袋を巻いていた。

 危機管理には最悪の状況で、襲撃を受けたとき供廻りは咄嗟には刀が抜けず、鞘のまま応戦する事態に追い込まれた。大老の最期が意外にあっけなかったのも無理はない。

 重大事件に驚いた幕府は直弼の死を極秘にし、負傷の治療中と公表した。幕府が直弼の大老職を解き、その死を認めたのは3月30日で、遺骸は4月に彦根藩世田谷領の菩提寺・豪徳寺(世田谷区豪徳寺)に葬られた。しかし、豪徳寺の墓碑には何故か「3月28日」と命日が刻まれていて当時の混乱を偲ばせる。

 事件の第一報はその日のうちに世田谷に届いたらしい。たまたま江戸に出ていた太子堂村(世田谷区太子堂)の村役人とみられる吉右衛門から井伊家の世田谷代官所に送られた速報が残っている。

 <御領主様御人数之内御門前ニテ 大変御座候テ>

井伊家の上屋敷は現在の国会議事堂前庭にあたる場所で、桜田門は目と鼻の先。現場から救助を求める緊迫感が伝わってくる。

(掲載号:03月28日号)