週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

原爆の 悲劇と 羅漢寺

 下目黒の五百羅漢寺には、大勢の羅漢さんのほかにも注目したいものがある。境内に建つ「移動演劇さくら隊殉難碑」もその1つである。

 第2次世界大戦中、日本では演劇も戦意高揚に利用され、日本移動演劇連盟という組織ができ、進歩的な新劇人たちも加盟を余儀なくされた。その1つが、俳優丸山定夫たちの苦楽座移動隊だった。

 苦楽座公演は各地で好評を得た。だが戦局は悪化の一方で、昭和20年、東京の劇場のほとんどが空襲で失われ、連盟は傘下の劇団の疎開を決め、苦楽座は広島市に行くことになった。同市はこの年の2月から3月にかけての公演先で、出発の6月、苦楽座は「桜隊」と改称された。

 広島には、丸山を始め人気女優の園井恵子ら15人が疎開、現地や近県で公演活動を続けた。運命の8月6日、宿舎兼事務所には9人がいた。原爆は宿舎の西700メートル余の地に投下された。俳優の森下彰子、羽原京子、島本ツヤ子、裏方の笠絅子、小室喜代の5人は即死だった。

 丸山は倒壊した家から抜け出して近くの学校にいたのを東京から駆け付けた隊員に探し出され、厳島の寺に運ばれたが、原爆症で苦しんだ挙げ句、終戦の翌日死去した。園井と舞台監督の高山象三は広島を抜け出し、宝塚市の知り合いの家にたどり着いたものの、園井は21日、高山は20日に亡くなった。

 俳優沖みどりは、1枚のシーツに身をくるんで東京の実家に戻り、16日に現在の東大付属病院に入院した。しかし、24日には他の3人と同じように死んでいった。

 全員20代から40代の前途ある身だった。石碑は9人の遺骨を預かっていた元苦楽座員で往年の名弁士徳川夢声が羅漢寺と相談、寺から石の提供を受け、昭和27年に建てられた。

(掲載号:04月04日号)