週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
お鯉さん 妙照尼 羅漢寺
今は立派に再建された下目黒3丁目の5百羅漢寺も、住職はいない、いわゆる無住の荒れ寺といった状態になった時期があった。
こんな寺の住職となって羅漢寺を守り続け、復興の基礎を築いたのは1人の尼僧だった。本名安藤照こと妙照尼だが、彼女はもともと仏門と縁のある人ではなかった。
前身は、明治後期の東京・新橋の花柳界で名を馳せた照近江のお鯉という芸者にほかならない。しかも日露戦争当時の総理大臣で、これを含め3度もその職に就いた桂太郎の愛妾として官邸にも住んだという異色の人である。
そのお鯉さん・妙照尼に関する数々のエピソードを、彼女と親しかった井上直明氏が『らかんじ物語』に書いてある。氏は太平洋戦争中の陸軍司政官で、戦後は経済安定本部員から多くの会社の役員を歴任、羅漢寺総代も勤めた。
「桂の夜の生活は、さぞ色っぽいものと思われたでしょうが、戦争の間じゅう、桂は私には何も出来なかったのですよ。それ程真剣で、それ程緊張していたのですね…」
同書のお鯉の術懐の一部で、彼女が桂のもとへ行った直後、日露戦争中の話である。
大正2年に桂が亡くなった後、もともと男勝りのお鯉はじっとしていられなかった。カフェや待合を経営したりした。だが、勝気な気性が警察とトラブルを起こし、そのとき彼女の身元引受人になった戦前の右翼の巨額・頭山満の「尼になれ」の一言で尼僧になり、彼の世話で昭和13年羅漢寺の住職になった。
以後も妙照尼の周囲には政治家や実業家たちの出入りが絶えなかった。その人柄が魅力的だったのである。妙照尼は昭和23年、69歳で亡くなった。
彼女は今、縁結びの「お鯉観音」として同寺に祀られている。
(掲載号:04月11日号)
