週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

岩屋の 弁財天 蟠竜寺

 5百羅漢寺や、永代橋落橋事故犠牲者の供養塔が建つ海福寺のある通りから山手通りに出て西へ行くと、左に蟠竜寺の参道が見えてくる。

 「同所、橋より一町ばかり西南、道より右にあり」
『江戸名所図会』は、同寺の所在地をこう記している。橋とは行人坂の下、現在の雅叙園入り口近くの目黒川に架かっている太鼓橋のことである。この橋の方から見れば、確かに記述どおりになる。

 『図会』は「開山は吟蓮社竜誉一雨霊雲和尚と号す」と続けている。参道入り口の説明板には、宝永6年(1709)増上寺の高僧霊雲が、行人坂下にあった称明院をこの地に移して蟠竜寺と改めた、と書いてある。

 『図会』はまた「境内に丈6の阿弥陀如来の銅像あり」と記し、見開きの挿絵にも、銅像が描き込まれている。残念ながらその銅像は明治の初め海外に流出し、現在はパリのチェルニスキー美術館に所蔵されているという。

 しかし、蟠竜寺が名を馳せたのは「又後の方山崖の下に岩窟ありて、中に弁財天を安置す(弘法大師の作なりといふ)」とある岩屋弁財天の存在にある。『図会』の挿絵の表題も「蟠竜寺/窟辣天柄士祠」とあって、本堂わきに岩窟が描かれている。

 今も寺の入り口には「不許辛肉酒入山門」と刻まれた寛政7年(1795)の銘がある結界碑に並んで、安永4年(1775)銘の「岩屋辣財天」の石柱が建っている。境内には岩窟というほどの感じではないが、本堂に向かって右後方の岩屋の中に石像の弁天が安置されている。

 この弁天さまは「山の手七福神」の1つで、『東都歳時記』にも「辣天(蟠竜寺窟)」と紹介されている。ここでも「いわや」が強調されていて岩屋弁天は蟠竜寺の名をより高めている。

(掲載号:04月18日号)