週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

不滅の 教師 吉田松陰

 吉田松陰は、安政6年(1859)幕府の命で萩から江戸へ送られた。江戸での取調べで松陰は幕府の嫌疑を完全に論駁した。それなのに、松陰はわざわざ老中間部栓勝の要撃計画を明かにした。

 松陰は、年齢や身分の差を考えずに、だれとでも誠心誠意話し合う人だった。だから皆その誠意に打たれた。松下村塾の門弟に対しても、師弟の間柄ではなく、いつも友人の温かさで接した。門弟の長所を見つけ、それを伸ばすことに努めた。それが松下村塾の秘密だった。松陰は幕吏に対しても全く同じ態度で誠意をもって話し掛けたのだが、それが裏目に出てしまった。

 取調べの奉行が出した結論は、流罪だった。これを受けた老中の評議で、大老井伊直弼が断を下して、死罪に決したという。

 明治の元勲、伊藤博文も門弟の一人である。貧農の出身だが、松陰に分け隔ては無かった。「特別の才はないが、周旋の才は抜群」と大事な使者に抜擢された。これが伊藤博文の出世コースに繋がったという。師の目に狂いはなかったのである。伊藤は、死刑した松陰の遺体を同志とともに小塚原回向院に埋葬した。

 文久3年(1863)伊藤は高杉晋作らと諮って、松陰の墓を世田谷の長州藩抱屋敷(世田谷区若林、現・松陰神社)に移葬した。師を刑死者の埋葬地に置き続けることに耐えられなかったのである。

 若林に長州藩毛利家の抱屋敷が置かれたのは、いつごろのことか明白ではないが、江戸時代初期に遡るらしい。付近に大夫山と呼ばれる山林があり、藩主の官名である毛利大膳大夫から出ている。こうして都心を避けた静寂の山林が松陰の永眠の地となった。

 松陰神社の西1キロ足らずの豪徳寺に非業の死を遂げた井伊直弼の墓があるのは、不思議な因縁である。

(掲載号:05月02日・09日合併号)