週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

祐天寺 所在地は 中目黒

 東横線「祐天寺」の駅名は駅の東方駒沢通り沿いに威容を誇っている名刹の祐天寺にちなんで付けられたに違いない。駅の東側一帯の地名も、上目黒4・5丁目、中目黒3丁目の各一部が昭和43年から祐天寺1、2丁目となった。
 こちらも、有名な寺があるからの町名変更だった。ところが、大本の祐天寺の所在地はといえば中目黒5丁目なのだから、どこかちぐはぐで微苦笑ものである。

 その祐天寺は『江戸名所図会』に「享保年間2世祐海和尚、祐天大僧正の遺跡の地を奉じて当寺を草創し、則ち祐天大僧正を開祖とす」とあって、壮麗な建物の挿絵と共に長々と紹介されている。

 祐天上人は磐城、現在の福島県出身の浄土宗の僧で、小石川の伝通院住職や徳川将軍家の菩提寺増上寺の36世法主を務めた。5、6代将軍綱吉、家宣の帰依を受け、多くの廃寺の復興に力を入れた。 

 晩年、目黒の地に隠居し、そこに念仏修行の道場を建てたいと願っていた。しかし、享保3年(1718)願いが叶わないうちに数え82歳で死去した。

 その遺志を継いだのが高弟の祐海上人である。新しい寺の建立には制約があった当時、幕府にいろいろ働きかけて祐天上人が念仏修行をした増上寺の末寺目黒の善久院を買いとって祐天の没年を開山とする寺を創建した。これが祐天寺だが、将軍吉宗から「明顕山祐天寺」の寺名を許されたのは享保7年のことだった。

 以来、将軍家の保護を受け、現在も都内有数の寺として繁栄している。境内には綱吉の養女竹姫寄進の仁王門や阿弥陀堂、家宣夫人天英院寄進の鐘楼と鐘など江戸時代の建造物が残っている。

 墓地中央には祐天上人の墓が建っている、そのすぐ近くには、大正天皇の生母柳原愛子の墓もある。

(掲載号:07月11日号)