週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
目切坂 上目黒 元富士
富士山を神として崇める富士山信仰は室町時代中期に始まり、江戸時代中期から末期にかけてより盛んになった。江戸の町では山開きが行われる旧暦の6月1日の早朝、家々では軒下に富士山・富士浅間神社を拝むための線香に火を点けた。この風習は、明治末年まで東京の一部で行われていたと伝えられる。
富士山の模型である富士塚の築造も盛んだった。実際の富士登山はなかなか難しいため、人工のミニ富士山に登って本物の登山の代わりにしようというものである。19世紀初期の文化文政時代には江戸市中や近郊に50以上も富士塚があったといわれ、目黒も例外ではなかった。
東横線中目黒駅北を流れる目黒川沿道を少し上流に向かって進むと、宿山橋という橋がある。それを北に渡って突き当たりを右折すると、旧山手通りに通じる上り坂がある。「目切坂」といい、江戸時代近くに石臼の目切りをする腕のよい職人が住んでいたゆかりによるという。この道筋は昔の鎌倉街道でもある。
坂を登っていくと、右手に「目黒元富士跡」の標識が立っている。文化9年(1812)上目黒の富士講の人たちが、ここに高さ12mもの富士塚を築いた。塚には9つの曲がりがある登り道が造られていた。本物の富士山と同じように1合目から9号目まであるという意味で、頂上には富士浅間神社が祀られていた。
しかし明治以後、富士信仰が薄れて多くの富士塚が取り壊されていき、元富士も同11年、同様の運命をたどった。さらに昭和18年、残っていた浅間神社や講の碑も大橋の氷川神社に移され、ここ上目黒の富士塚・目黒元富士は完全に姿を消してしまった。
今、跡地と推定される地には、富士塚に代わってそれより高いマンションがそびえ立っている。
(掲載号:08月15日・22日合併号)
