週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
高台に 築いた 新富士
目黒には、「目黒元富士」といわれた富士塚の他「目黒新富士」と呼ばれる富士塚も存在した。元富士築造から7年後の文政2年(1819)幕臣近藤重蔵が現在の中目黒2丁目にあった別邸に築いたもので、高さは元富士より3メートル高い15メートル、麓の周囲は300メートルもあった。
近藤重蔵とは幕府先手組与力で後に書物奉行となった人だが、それより探検家で千島列島探査などを行った人物として歴史に名を留めている。ただ「近藤富士」と呼ばれた新富士は、後に重蔵に悲劇をもたらすことになるが、それはともかく、目黒の富士塚としては元富士より人気があったらしい。
「武州荏原郡中目黒村の別所といふ処は、芙蓉峯を模して能作れり、新ふじと称す、此地一体外々より四五丈も高き土地なるに、その一際高き崖の上に、又候や、三四丈余の高き山を築立たれば、祐天寺の方より見れば、雲間に聳えて、いよいよ高し」
十方庵敬順の『遊歴雑記初編』(東洋文庫)の記述で、彼は新富士頂上からの眺めを「目のおよぶ山々村々遠望せずといふ事なく、東・西・南の三方二三里の間悉く見えて、美景言語にたえたり、四季の眺望は当処にまさるはあるべからず」と絶賛している。
安藤広重は『名所江戸百景』で目黒の富士塚を2つとも取り上げているが、新富士は桜の頃の風景を描いている。麓を流れる今は暗渠となった三田用水のほとりの桜は満開で、茶店も出ている。全体が緑の富士塚の頂上には人が3人登っていて、西方に見える本物の富士山を眺めている。
高台に築かれた眺望のよさがうかがえる絵柄で、新富士の人気の程が偲ばれる。さらに、中目黒が名刹の目黒不動尊や祐天寺参りの観光コースに当たっていたのも幸いしたに違いない。
(掲載号:09月11日号)
