週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
新富士は 惨劇の 舞台にも
千島探検で知られる幕臣の近藤重蔵が現中目黒2丁目にあった別邸内に「目黒新富士」といわれた富士塚を築造してから7年後の文政9年(1826)5月、新富士の麓で突然事件が起きた。重蔵の長男富蔵が、隣家の植木職半之助一家4人を斬殺したのである。
半之助は新富士で茶店を営んでいた。その利権と土地の境界をめぐる争いが近藤家との間にあったのが、事件の原因らしい。
事件後、重蔵は近江大溝藩にお預け、富蔵は八丈島へ流罪となった。重蔵は3年後、59歳で死去した。富蔵は前非を悔いて八丈島の歴史や民俗を丹念に調査し、69巻もの『八丈実記』を完成させた。明治13年赦免されて東京に帰り、同20年83歳の天寿を全とうした。
この事件は、『山開目黒新富士』という歌舞伎にも脚色された。劇作家で劇評家の伊原敏郎(青々園)の労作『歌舞伎年表』によると、上演されたのは事件から67年もたった明治26年3月で、劇場は下谷ニ長町(現台東区台東)の市村座だった。
衝撃的な事件だっただけに長く人々に語り継がれており、遅ればせながら芝居に仕組んでも観客が呼べるとの計算があったのだろう。作者は河竹黙阿弥の高弟で『め組の喧嘩』が代表作の竹柴其水、役者は初代市川左団次の一座だった。
息子の2代目左団次著『父左團次』に「其水の新作『山開目黒新富士』(近藤重蔵)」とのくだりがあり、この芝居は通称を『近藤重蔵』といったようである。しかし『年表』の配役を見ると、近藤重蔵が誉堂龍蔵となっているなど、実名は使われていない。
江戸時代、芝居では幕府をはばかって近い時代の人物は羽柴秀吉を真柴久吉とするなど変名を使っていた。その風習が明治半ばでもまだ残っていたのだろう。
(掲載号:09月19日号)
