週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
『図会』のまま 下馬の古社 駒繋神社
『江戸名所図会』の魅力は、名所を紹介する的確で豊富な記事だけでなく、丹念な現地調査にもとづいた見事な挿絵にある。絵師の長谷川雪旦は、著者の斎藤幸孝(神田雉子町の町名主)らと何度も現地に足を運んでいるのである。
駒繋神社(世田谷区下馬4-27-26、通称は子明神)の挿絵も、江戸末期の姿と現在の風景がぴたりと重なるような秀作である。
記事を見ると、
<正一位子明神社 二子街道 下馬牽沢邑(いまの下馬)、道より左の方、耕田を隔てゝ丘の上にあり>
つまり、江戸から二子玉川に向かう街道の左手、稲田の先に子明神の丘を望むことができたのである。さすがに現在の玉川通りから1キロほど先の駒繋神社を望見することは不可能だが、挿絵を見ると鬱蒼と樹木の茂る小高い丘をぐるりと囲むように蛇崩川が蛇行し、社殿に登っていく橋、鳥居、石段と歩いていけそうな写生である。
かつての稲田は今は静かな住宅街に変わった。崖崩れや水禍の珍しくなかった蛇崩川は暗渠化され付近の人々が散歩を楽しむ緑道になっている。しかし、その緑道は雪旦が描いたように大きくカーブし、赤い太鼓橋を渡って入る鎮守の杜は神々しい雰囲気を残している。そう、『江戸名所図会』そのままなのである。
鎌倉時代を開いた源頼朝が奥州の藤原泰衡征討に向かう途中、この社に参拝し、愛馬を境内の松に繋いだ伝説から駒繋神社の名があるが、祭神は大国魂命(別名、子の神)で「子明神」と親しまれていた。正式には駒繋神社と呼ぶようになったのは明治以後のことだという。
絵師、長谷川雪旦は浅草の幸龍寺に葬られた。関東大震災後、幸龍寺は世田谷区北烏山5-8-1に移転し、雪旦もそこに眠る。
(掲載号:11月21日号)
