週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
西澄寺に 蜂須賀家 武家屋敷門
講談の『太閤記』は豊臣秀吉の出世物語を軸にしていて、日吉丸(秀吉の幼名)が矢作橋で野宿するところは名場面の1つになっている。通りかかった盗賊一味と口論し、その頭領の蜂須賀小六を心服させてしまうのである。
江戸時代初期に成立した小瀬甫庵の『太閤記』には、織田信長が美濃(岐阜県)の斎藤氏を攻めあぐねた際、秀吉が奇策を言上する件がある。強盗をやるような土地の豪族をうまく味方に引き入れたらどうでしょう。こういう連中のなかに結構有能な武者がおります。信長が「尤じゃ。名を挙げてみよ」と命じると、秀吉は1200人余の名を書いて差し出した。
辣腕の秀吉は、盗賊仲間の消息にも精通していた。そのリーダー格のリストの中に蜂須賀小六の名がある。
蜂須賀小六こと正勝、その子の家政とともに秀吉に従って軍功を上げ、徳川時代に入ると蜂須賀家は徳島藩25万石の大大名に出世した。
東京・世田谷の閑静な住宅街の一画に西澄寺(世田谷区下馬2-11-6)がある。「日輪山西澄寺」と刻まれた石碑を見ながら参道に入ると、正面に堂々たる表門を望むことができる。傍らに「東京都指定有形文化財 武家屋敷門」と書かれた案内板が立っている。武家屋敷門だから、切妻造り総瓦葺の門の両脇に出番所がついている。
区教委の調査によると、この門はもと三田四国町(現・港区芝3丁目付近)にあった旧蜂須賀家の屋敷門を昭和3年に移築したものだという。
しかし、それ以前の歴史や建築年代は不明で、江戸時代末期の建築と推定されている。
同寺は、高野山で修行した隆向和尚が天正2年(1574)に開山、明治時代に三田村慧荘和尚が復興した。古雅な書院も、麻布の西園寺公邸のものという。
(掲載号:11月28日号)
