週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
海老茶の袴 下田歌子と実践女子学園
卒業式のシーズンを迎えると、街角で女子大生の袴姿をよく見かける。明治の中頃、海老茶色の袴をはいた女子学生が洋書を小脇にして往来する姿を、紫式部になぞらえて「海老茶式部」と呼んだ。
石井研堂『明治事物起原』は次のように説明している。
<女学生の袴の海老茶色なるは、華族女学校に創まり、校長下田歌子の案なりといふ。これより、女学生に『えび茶式部』の俗称あり>
現代にもこのファッションは継承され、袴の色も海老茶色や濃紺だけでなく、紫や緋色系統など多彩である。
井上ひさしは短編小説『海老茶式部の母』のなかで、下田歌子の発案を手みじかに次のように解説している。
<明治十八年、いまの学習院女子部の前身である華族女学校が開校したとき、そこの学監だった彼女は、それまでの裳姿がとかく女子としての礼容を欠き、高貴な御方々の前ではなんとしても恐れ多いと考え、従来の緋袴と指貫とを折衷して新しく華族女学校専用の袴を考え出した>
まだ洋服が普及する前のことだから、着物の裾を袴できりヽと押えた服装は新時代の女子学生にはぴったり。これが明治の女学生の制服のようになったのは当然だった。
下田歌子は安政元年(一八五四)岐阜県に生まれ、明治政府に登用された父に従って上京、明治五年、宮中に女官として出仕した。その歌才を昭憲皇太后に認められて、とくに歌子の名を賜っている。明治三十一年、麹町に女性教育の活動拠点として帝国婦人協会を設置し、その翌年、実践女学校を発足させたが、同三十六年、渋谷の皇室御料牧場跡地の一部を借用して移転した。
これが現在の実践女子学園(渋谷区東一の一)で、学園内に歌子の雅号をとった香雪記念館がる。
(掲載号:02月08日号)
