週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

再建の大円寺と五百羅漢

 迷惑な年、明和九年(一七七二)の「目黒行人坂の火事」の原因は悪僧真秀の放火で、彼は放火の常習犯だった。とうとう自分が世話になっている大円寺にまで付け火をしたわけで、幕府は同寺の再建をすぐには許さなかった。
 『江戸名所図会』は「行人坂」の項で「同所同じく西の方、目黒へ下る坂を云ふ。寛永の頃、湯殿山の行者某、大日如来の堂を建立し、大円寺と号す」と説明した後「この寺今は亡びたり」と付け加えている。同所は現在の白金台辺り、行者某は大海法印のことだが、同書が出版された一九世紀前半の天保期には、確かに同寺は存在しなかった。

 大円寺は嘉永元年(一八四八)、当時の薩摩藩主の助力によってようやく再建された。この間、火事のとき坂下の目黒川に運ばれて無事だった仏像などは、風下で類焼を免れたすぐ近くの明王院に仮安置されていた。明王院は『江戸名所図会』にも掲載されている名刹だったが廃寺となり、現在は雅叙園の敷地の一部となっている。

 今、JR目黒駅の方から行人坂を下って行くと、左手に大円寺が立っている。坂の途中から地名は品川区上大崎から目黒区下目黒に変わり、同寺の所在地は下目黒一丁目になる。本堂は再建当時のもので、寺伝には白金辺りの寺のものを買い取って移築したと記録されているという。

 本堂に向かって左の傾斜地には、おびただしい数の石仏が並んでいる。五百羅漢で、数は五百二十に及ぶ。

 大火の後、大円寺の焼け跡に犠牲者を弔うために造られたと伝えられ、『図会』には「同じ道の左にあり」と記されている。寺の再建時に現在地に移された。その中には、聖母マリアを思わせる赤ん坊を抱いた女性や錫杖の輪を掛ける部分が十字架になっている羅漢像もある。

(掲載号:03月01日号)