週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

明治の官園 いま渋谷の文教地域

 北海道大学は、意外なことに東京で産声をあげている。
 明治のはじめに設置された開拓使という役所は、北辺の開発を任務とし、東京・芝の増上寺内に本拠地を置いた。開拓次官となった黒田清隆は薩摩藩出身の実力者で、函館・五稜郭に立てこもった幕臣榎本武揚らを降伏させたことで知られている。

 黒田は北海道の風土を考えてアメリカの農業技術を導入するのが最適と判断し、アメリカ人教育者・技術者を雇い入れるとともに、津田梅子(津田塾大学創立者)など女性五名を含む留学生を派遣した。

 開拓使が東京に学校や官立農園を開設したのも事業の一環だった。北海道で事業を起こす前に、まず東京で実験というわけだ。北海道大学編『北大百年史』にこうある。
<一八七二年(明治五)四月十五日、開拓使仮学校は東京芝増上寺本坊に開校した。当日、生徒には赤飯、官員一同には祝酒・赤飯が饗されたと記録にあるが、そのほかの模様は不明である>

 黒田は当初「開拓使小学校」で申請したが、文部省も小学校制度創設に取りかかっていたので「仮学校」に変更した。最初の生徒のなかには、江木千之(のち文相)元田肇(のち衆院議員)がいたという。これが札幌に移って札幌農学校、北海道大学に発展したのは言うまでもない。

 余談だが、赤飯の行事は後に来日した教頭のクラークが「アメリカにはこういう風習はない」と廃止したとか。

 官園の設置は外国輸入の動植物が日本の風土に合うか、まず東京で試すのが目的で、第一官園が青山南町七丁目の旧西条藩邸(現・青山学院一帯)、第二官園が青山北町七丁目の旧淀藩邸跡(国連大学、「こどもの城」)、第三官園が麻布新笄町の旧佐倉藩邸跡(日赤医療センター一帯)だった。

(掲載号:03月08日号)