週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
大円寺 生身の釈迦像
明和九年(安永元年、一七七二)の大火の通称にもなった行人坂は『江戸名所図会』の挿絵にもなっている。同書には「今は亡びたり」と記された火元の大円寺は当然描かれていない。その代わり、寺跡と思われる所に大火の犠牲者供養のために造られたという今も残る五百羅漢が細かく描かれている。
大円寺は既に紹介したように、大火から七十六年後の嘉永元年(一八四八)に再興された。七年後の安政二年に刊行された近江屋板切絵図「品川・白金・目黒辺之絵図」には「ギヤウニンカサ」の途中に「石像五百羅漢大円寺」と記入されている。
南に隣接しては大火後大円寺の仏像などが仮安置された明王院、また両寺院の背後には熊本藩主細川越中守下屋敷が大きく記されている。明王院は明治初めに廃寺となって大円寺に吸収合併され、その跡地は細川家の下屋敷と共に雅叙園の敷地となっている。
現在の大円寺は再興とはいえ寺自体が江戸の面影を残している貴重な存在だが、本堂左の耐震、耐火建築の釈迦堂には国の重要文化財の釈迦如来像が祀られている。十世紀に中国・宋で造られて京都・嵯峨の清涼寺にもたらされた像を模したので、清涼寺式釈迦如来像と呼ばれている。
頼朝が鎌倉幕府を開いた翌年の建久四年(一一九三)に造られたもので、高さは百六十二センチメートル余り、榧材でできている。清涼寺の像が胎内に絹や錦で作られた人間と同様の五臓や文書、経巻が納められているのに倣ってか、大円寺の像には白銅菊花双雀鏡という鏡と女性の髪の毛などが納められていて「生身の釈迦如来像」とも呼ばれている。
毎年の元旦から七草までと花祭りの四月八日、さらに伝教大師作と伝えられる同寺の大黒天開帳の甲子祭の日に開帳されている。
(掲載号:03月22日号)
