週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
坂と橋を整備した西運
十七世紀末頃から十八世紀初めにかけて、目黒行人坂の明王院に西運という僧がいた。明王院は既に触れたように、明治初期にすぐ隣の大円寺に吸収合併された寺で、今の雅叙園の所に建っていた。
「常念仏の道場にして頗る殊勝なり。毎月四日報恩念仏百万遍修行あり。(この常念仏は西運といへる沙門の発願なりとぞ)」。『江戸名所図会』「明王院」の記述で、西蓮は西運のことと思われる。
彼は、目黒不動尊と浅草観音へ日参一万日の念仏行を行った。往復約四十キロ、満願まで実に二十七年余りの苦行だった。この修行中に市民から受けた浄財で、彼は行人坂に石畳を敷き、坂下に流れる目黒川の両岸に石壁を築いて頑丈な橋を架けた。
現在、行人坂の北にあって目黒通りの一部になっている権之助坂が地元の名主・菅沼権之助によって開発されるまで江戸府内から目黒不動への往復は急峻で泥道の行人坂を通らなければならなかった。目黒川の橋も粗末な造りで流されやすかった。西運はこの二つの悩みを解消させた。
苦行に耐え、江戸市民のために尽くした西運とは、どんな素性の人だったのだろう。言い伝えでは、彼はあの八百屋お七の恋人、寺小姓の吉三郎の後身とされている。放火の罪でお七が処刑された後、吉三はその菩提を弔うため僧となって諸国を巡拝し、江戸に戻ってからも過酷な修行を続けたといわれる。
だが、西運が小姓吉三だったという確証はない。火事ということが、行人坂の西運とお七とを結び付けたのかもしれない。ただ上人と崇められた西運という徳の高い僧が実在したことは確かである。
今、大円寺の阿弥陀堂には西運が願主の阿弥陀三像と、西運上人像、さらに「お七地蔵」と伝えられる地蔵像が祀られている。
「常念仏の道場にして頗る殊勝なり。毎月四日報恩念仏百万遍修行あり。(この常念仏は西運といへる沙門の発願なりとぞ)」。『江戸名所図会』「明王院」の記述で、西蓮は西運のことと思われる。
彼は、目黒不動尊と浅草観音へ日参一万日の念仏行を行った。往復約四十キロ、満願まで実に二十七年余りの苦行だった。この修行中に市民から受けた浄財で、彼は行人坂に石畳を敷き、坂下に流れる目黒川の両岸に石壁を築いて頑丈な橋を架けた。
現在、行人坂の北にあって目黒通りの一部になっている権之助坂が地元の名主・菅沼権之助によって開発されるまで江戸府内から目黒不動への往復は急峻で泥道の行人坂を通らなければならなかった。目黒川の橋も粗末な造りで流されやすかった。西運はこの二つの悩みを解消させた。
苦行に耐え、江戸市民のために尽くした西運とは、どんな素性の人だったのだろう。言い伝えでは、彼はあの八百屋お七の恋人、寺小姓の吉三郎の後身とされている。放火の罪でお七が処刑された後、吉三はその菩提を弔うため僧となって諸国を巡拝し、江戸に戻ってからも過酷な修行を続けたといわれる。
だが、西運が小姓吉三だったという確証はない。火事ということが、行人坂の西運とお七とを結び付けたのかもしれない。ただ上人と崇められた西運という徳の高い僧が実在したことは確かである。
今、大円寺の阿弥陀堂には西運が願主の阿弥陀三像と、西運上人像、さらに「お七地蔵」と伝えられる地蔵像が祀られている。
(掲載号:03月29日号)
