週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

将軍相続 大願成就 金王八幡

 渋谷の金王八幡神社(渋谷区渋谷三丁目)の社殿と神門は、江戸初期の建築様式を残すものとして区の文化財になっている。これを寄進したのが、三代将軍家光の傅役だった青山忠俊と乳母の春日局である。慶長十七年(一六一二)二人は世子竹千代(のちの家光)の将軍相続を同社に祈願し、大願成就のお礼に壮麗な社殿を建てたという。

 忠俊は、現在の青山一帯を家康から拝領した青山忠成の嫡男である。剛直の武人で、家光の言行が華美になると厳しく注意し、「私を殺してから勝手になさるがよい」と一歩も引かなかった。また、春日局は伊勢参りを口実にして駿府(静岡市)にいた家康を訪ね、長子竹千代の相続を直訴したことで有名である。

 もともと家康の考えは長子相続で固まっていたようである。家康自身が嫡男信康を失ったあと、次男の結城秀康を差し置いて三男秀忠に二代目を譲ったため、人知れず気苦労を重ねていた。秀忠もそれがわかっていたから、従順な二代目の役を演じてみせた。

 親はどの程度子の才能を見抜くことができるだろうか。封建制度の時代、長子相続の慣習には安全弁の働きもあった。慣習を無視して次男、三男などに相続させて失敗すれば、子の能力だけでなく親の判断力まで批判される。その点、長子相続のルールに従っていれば、親の責任は軽くなる。家康がそんなことを考えていたかどうかはわからないが、三代将軍選びでは長子相続のルールを毅然として貫いた。

 春日局は家光の乳母として勢威を振るい、その子の稲葉正勝は将軍の乳兄弟ということで重用され、老中にまで出世した。いま国連大学や「こどもの城」のあるあたり(渋谷区神宮前五丁目)は幕末に淀藩主・稲葉正邦の下屋敷があったところで、正邦は稲葉家の後裔である。

(掲載号:04月05日号)