週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

奇を競った大名庭園の青山あたり

 日本庭園史のなかで、江戸時代の大名庭園の評価はあまり高くなかった。白幡洋三郎著『大名庭園』(講談社選書メチエ)は、これに異議を唱え「庭園は江戸にあり」と、その見直しを訴えている。

 同書によると、江戸の大名庭園は大きな池を中心とした回遊様式を生み出し、池や芝生が庭園に雄大な広がりを与えるようになったという。日本の庭園で緑の芝生が大事な役割を演じるようになったのも、やはり大名庭園以後のことで、拝見の客や藩士など大勢が楽しめるような空間が必要になったためである。

 <座敷にじっと座ったまま、動かずに庭園を眺めるような観賞にとっては、広がりは退屈きわまりない。だが大名庭園を回遊する中では、細い山径を抜け、うっそうと茂る森をくぐると目の前にパッと視界が開ける池や芝生は、視覚体験の大きな変化をつくり出し、回遊に驚きと楽しみを与えてくれるのである>

 いま、青山・表参道のあたりは、東京でも有数のファッションの発信地である。これが江戸時代には有力諸侯の下屋敷などが並ぶ大名屋敷地帯で、当時は当時なりに、それぞれの庭園の魅力を自慢の種にしていたらしい。

 文化十一年(一八一四)に『遊歴雑記』と題する随筆を出した十万庵敬順は、そういう情報に通じていて、青山原宿にあった吉井藩(群馬県吉井町)松平左兵衛督の下屋敷(渋谷区神宮前)に由緒ある手永鉢があると聞き込み、それを拝見した次第を書き残している。なにしろ鎌倉時代の歌人藤原定家が使ったという手永鉢。もとは灯籠の笠石だったらしいと達者なスケッチが付けてある。

 「古雅にして実にめづらしく」と十万庵は珍重する一方、この庭から眺めた渋谷・千駄が谷・代々木などの村の姿に見とれている。

(掲載号:05月03日号)