週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
孟宗筍 栽培の記念碑
食用になる筍は真竹、淡竹、孟宗竹のそれが主なものだがいずれも中国から伝来した。このうち真竹、淡竹は平安時代以前に日本にもたらされたようだが、孟宗竹が琉球を経て薩摩に伝わったのは十六世紀半ばの戦国時代末期のことだった。さらにこれが江戸時代になって近畿地方に入り、幕末近くなってようやく江戸にもたらされた。
「薩州侯品川の前邸へ、琉球産の笋を始めて植ゑらる。諸人これを珍賞す(世に孟宗笋と称す)」と『増訂武江年表』安永八年(一七七九)八月の項にある。ただし、これには喜多村均庭が「孟宗竹を植えて間もなく諸人が珍賞するはずがなく、そうなるのはもっと後のことだろろう」という注釈を付けている。
その通りで、伝えられるところでは、寛政元年(一七八九)名字帯刀を許されていた築地鉄砲州の回船問屋山路次郎兵衛が鉢植え用として薩摩屋敷から孟宗竹を数株手に入れ、戸越村後地の別邸内で栽培した。やがて見事な筍が採れるようになり、次郎兵衛は付近の農家に筍の栽培を薦めた。
その結果、幕末から明治にかけて今の品川区西部は孟宗筍の産地として名を馳せるようになった。近くの目黒不動門前の茶屋では、筍飯が名物にもなった。
次郎兵衛は文化二年(一八〇五)亡くなり、遺言によって翌年、息子の三郎兵衛が筍栽培地の真ん中に父の歯骨を埋め、上に石碑を建てた。地元で筍塚と言っている孟宗筍栽培記念碑で、正面には「櫓も楫も弥陀にまかせて雪見哉」という彼の辞世の句と「釋竹翁」の号が刻まれている。
今、区立後地小学校北門斜め前の坂道を上りきった先の左側、民家の間にその碑がある。付近は住宅地で竹林の面影は全くないが、花も供えられ区の文化財としてきちんと守られている。
(掲載号:06月21日号)
