週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
朗惺寺 開拓団 慰霊碑
東急目黒線の武蔵小山駅からアーケードの商店街に入り中ほどの十字路を左折して少し行くと、左手に朗惺寺の参道がある。日蓮宗の池上本門寺の末寺で、江戸時代に入る少し前の文禄二年(一五九三)当時の本門寺住職日惺上人によって丸の内に建立された。
日惺は江戸に入って間もない徳川家康の信任が厚く、家康から江戸市内に五箇所の土地を下付けされて朗惺寺などの五つの寺を建てた。同寺はその後、御徒町(台東区)、芝二本榎(港区)へ移転、明治四十二年に現在地に移った。
今の同寺の本堂は戦災復興したものだが、本堂右の梵鐘は貞享二年(一六八五)に鋳造されたものである。また、墓地の入り口や本堂横の池のほとりにある四基の庚申塔は十八世紀初めから十九世紀にかけて小山村の各所に建てられたものだという。
だが、本堂前で眼を引くのは、左手に建っている「第十三次満洲興安東京荏原郷開拓團殉難者慰霊碑」と刻まれた石碑である。
太平洋戦争半ばの昭和十八年、武蔵小山商店街の人たちは開拓団を組織して千人余りの団員が現在の中国東北部の旧満州に渡った。ところが、終戦直前の二十年八月のソ連軍進攻による混乱で開拓団が南方へ避難する途中、暴徒に襲われて八百余人が命を落すという惨事に見舞われた。
慰霊碑はこの痛ましい犠牲者を追悼するため、かろうじて帰国した人たちによって重三回忌を迎えた昭和三十二年に建てられた。碑の両側には開拓団結成の趣意や、慰霊碑建設の主旨が刻まれている。
活気のある現在の商店街からは想像もつかない戦争の大きな傷痕で、碑の前には今も花が供えられている。だが、寺の話しでは参拝者は年々少なくなっているそうで、戦争の悲劇も歴史の一コマになろうとしている。
(掲載号:06月28日号)
