週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

京極稲荷 浄土寺墓地 柳亭種彦

 朝日地蔵堂近くの後地交差点を東、中原街道方向へ進むと右手にこぢんまりした京極稲荷の社殿がある。この辺りは讃岐(香川県)丸亀藩京極家の下屋敷跡で、お稲荷さんは屋敷内に祀られていたものだという。

 この道をもう少し東へ行くと町名は小山二丁目から荏原一丁目に変わり、左手に浄土寺墓地が見える。浄土寺は今も港区赤坂四丁目にあり、明治四十年、墓地だけが現在地に移された。

 この墓地には、江戸時代後期の戯作者柳亭種彦が眠っている。本名高屋彦四郎知久の彼は幕臣だったが、狂歌や俳句、川柳などに親しみ山東京伝に私淑して初めは小説の一種の読本を書いた。

 この読本では大成しなかったものの、挿絵画家の歌川国貞と協力して絵入り物語りの草双紙、特に合巻本を手掛けるようになって流行作家となった。その作品のなかでも有名なのが、文政十二年(一八二九)から天保十三年(一八四二)にかけて次々に出版された『偐紫田舎源氏』である。

 紫式部の『源氏物語』を室町時代に移して翻案したもので、大変な評判となった。特に光源氏に相当する光氏は徳川十一代将軍家斉がモデルでその生活ぶりは江戸城大奥を描写したのではないかと、うわさされた。

 結局は、この本が種彦の命取りとなった。天保十二年に始まった老中水野越前守忠邦の天保改革で、『田舎源氏』は風紀を乱すものとして発禁処分を受けた。このため、既に書き終えていた三十九、四十編は出版できなかった。

 失意の彼は、発禁処分を受けた年に数え六十歳で死去した。急死だったために、自殺説も伝えられている。

 墓地には他に四方赤良(大田南畝)、朱楽菅江と共に狂歌中興の祖といわれる唐衣橘洲の墓もある。

(掲載号:07月19日号)