週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

昔の荏原は広かった

 戯作者の柳亭種彦が眠っている浄土寺墓地や星薬科大学の所在地を荏原と紹介したように、荏原は今、品川区西部の一町名となっている。だが現在の品川区は昭和二十二年品川区と荏原区が合併して誕生したもので、荏原は昔、広い地域の名称だった。

 地名の起こりは荏胡麻の茂る原に由来するという説がある。しかし江原、縁原、永原などと書かれたこともあり、はっきりしない。

 平安時代初頭の延暦十六年(七九七)成立の『続日本記』に武蔵国荏原郡の記述があり、また『万葉集』には荏原郡から防人として筑紫に旅立つ夫と、その妻が別れを惜しむ歌が載っている。特に遠く苦難の旅に出る夫を思いやる妻の次の歌は、けなげな荏原女性の歌として知られている。
 草枕旅行く夫が丸寝せば
 家なる吾は紐解かず寝む

 承平年間(九三一〜三八)にできた古代の百科辞典ともいえる『和名類聚鈔』(和名抄)には、荏原郡に属する郷名が記されている。消滅した地名が多いが、その範囲は現在の品川、目黒、大田、世田谷の各区と港、千代田両区の一部に及んでいたらしい。

 下って江戸時代には品川、六郷、馬込、世田谷、麻布の五領が荏原郡に属していた。明治になって荏原郡は二年に品川県、四年に東京府に編入された。二十二年の町村制施行のとき、同郡は品川、大森、羽田、大井、大崎の五町と平塚、目黒などの十四村で構成されていた。

 この内の平塚村は中延、戸越、小山、上蛇窪の五村が合併したもので大正十五年、町となった。ところが神奈川県平塚町(現平塚市)と郵便物などの混同が激しく翌昭和二年、荏原町と改称し同七年、この町がそっくり荏原区となった。

 荏原は次第に狭くなって今に至っている。

(掲載号:08月16・23日号)