週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

都の西南 東京府 荏原郡

 明治四年に成立した東京府荏原郡について、もう少し詳しく触れてみる。

「荏原郡は東京府の西南に位し、東は東京灣に望み、西は北多摩郡に接し、南は多摩川を劃して神奈川県橘樹郡と相對し、北は豊多摩及東京市芝區に隣接して居る」

 大正十三年発行の『東京府荏原郡誌』の書き出しで、その広さを「郡の西端松澤村から、東方品川町に至る距離三里十五町、南端羽田町から北方世田ヶ谷に至る二里十八町であつて、其面積は六方里六分七厘で南葛飾郡と略同様の面積を有して居る」と記している。ちなみに一里は四キロ弱一町は百九メートル強になる。

 行政区画として「本郡を行政上九町十ヶ村とし左記に區別す」と品川町以下を列挙している。明治二十二年の町村制施行時に五町十四村だったのが同書発行時には目黒、世田ヶ谷、入新井、蒲田の各村が町になっていたわけである。

 十ヶ村は松澤、平塚、碑衾、玉川、駒澤、馬込、調布、矢口、池上、六郷の各村である。このうち平塚村が後に荏原町となり、昭和七年に荏原区となったことは前に紹介した。

 荏原郡は江戸時代までの荏原郡より幾分狭くなっていたようだが、それでも現在の品川、目黒、大田、世田谷各区の全域に及んでいた。

 同書は大正九年十月一日に行われた第一回国勢調査による郡内の人口を記載している。それによると、総人口は二十五万三千人余で、町村別では宿場の伝統を引く品川町の四万一千余人が一番多く、大井町の三万六千余人、大崎町の三万四千余人が続いている。

 ただ国勢調査後、郡内の人口は増加を続けているとも記し、特に大正十二年の関東大震災後は市部から移住してくる人たちが相次ぎ、国勢調査の数字は現状を示しているものではないと、ことわっている。

(掲載号:08月30日号)