週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
人情がこもる平塚の碑
薬用植物園がある星薬科大学前の中原街道を南へしばらく行くと、平塚橋という名の交差点がある。かつて、ここに品川用水に架かる同名の橋があった名残で、交差点の東側は平塚三丁目と西中延一丁目、西側は荏原三・ 四丁目になる。
この交差点の西側を南へ渡った先の路地裏、荏原四−六−四に平塚の碑という石碑がひっそり建っている。民家に挟まれた中にあって分かりにくいが、「平塚之碑」と刻まれた一見墓石のような碑の前には木の鳥居が建っていて、由来を記した標識もある。
平安時代後期に起きた奥羽の豪族清原氏の内乱・後三年の役(一〇八三−八七)では源氏の武将八幡太郎義家が鎮圧に当たった。義家は最初かなり苦戦したが、これを都で知った弟の新羅三郎義光が役職をなげうって兄の応援に駆けつけ、無事に乱を治めることができたと伝えられている。
義光は新羅明神の社前で元服したので、新羅三郎と称した。優れた戦術家で弓が得意な一方、楽器の笙にも長じた風流人だったといわれる。また、武田信玄が出た甲州武田氏の祖に当たる人としても知られている。
その義光が役が終わって京都へ引き揚げる途中、当時の荏原郡平塚村で野営していたとき、盗賊の急襲を受けて多くの兵を失った。これを哀れんだ村人は、死者をねんごろに葬り、塚を築いた。平塚の由来だが、塚はいつしかなくなってしまった。
ところが太平洋戦争後、現在の碑の辺りを整地したとき多数の鎧や兜、刀剣が発掘された。同時に、付近の人たちがたびたび不吉なことに遭い伝説を知る人の間に塚が失われた祟りではないかとの声が出て昭和二十七年、地元の有志が平塚の碑を建てた。
荏原の人情の厚さは、大昔と変わらない。
(掲載号:09月13日号)
