週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

都電が渋滞の犠牲に

 渋谷駅のハチ公広場に都電のターミナルがあった。昭和三十二年までのことである。国電(現・JR)の改札口を出ると都電の停留所があり、目と鼻の先に飲食店、甘栗太郎、本屋など木造二階建ての商店が並んでいた。

 『新修渋谷区史』に、昭和三十二年の都内の「都電乗降客数ベストテン」が載っている。渋谷駅停留所は、日本橋、新宿に次いで第三位で、一日の乗降客数は七万四千五百人余となっている。当時、都電は国電に次いで主要な公共交通機関であり、渋谷が単なる乗降駅から盛り場に成長したことがわかる。

 乗降客の急増とともに、タクシーなど各種車両の増加が目立ち、交通麻痺が大きな都市問題になった。直接、打撃を受けたのが都電である。

 都心から青山通り経由で渋谷駅に来る都電は、宮益坂を下って国電のガード下を潜りハチ公広場へ入っていた。

 <(ハチ公広場は)都電の折り返し点としては、極めて狭隘で、宮益坂を下って次々と入って来る都電が結局入りきれずに、坂の途中に待機する破目となり、なおもその後から到着する都電がされに臨時停車して、宮益坂の中腹に都電の行列が現出するという状態であった。……この間、乗客は終点を目のあたりにしながら、車外に出られず、歩いて行けば二分で駅に到達できるところを、一五分以上も待たされる>(『新修渋谷区史』)

 止むをえず都電の折り返し点の移動が決まり、昭和三十二年三月から、いまの東口バスターミナルが停留所になった。それも、下り都電は金王坂を経て渋谷警察署脇から東口に入り、上り都電は宮益坂を上って都心に向かうループ路線の採用だった。

 こうした苦肉の策も空しく昭和四十四年を最後に都電は廃止され、道路は車に明け渡される。

(掲載号:10月18日号)