週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
昆陽の 墓所は 目黒不動
サツマイモが全国的に普及したのは、幕末に近くなってからである。享保17年(1732)の大飢饉後、ご存じ甘藷先生青木昆陽が救荒作物として現在の小石川楽園で薩摩から取り寄せた種芋で試作を行ったのがきっかけだった。
彼だけでなく、サツマイモの効用を説く昆陽を認めて将軍徳川吉宗に推挙した南町奉行大岡越前守忠相、それを採用した吉宗の連携プレイの結果ともいえる。
だがいずれにしろ大体は昆陽で、太平洋戦争中や戦後の食料難時代にもサツマイモは大きく役立った。ただ当時の味は二の次で収穫量本位のイモは、その後のサツマイモ嫌いを助長させたきらいがなくもない。
ただ、その戦中戦後の時代を除いては、サツマイモは救荒作物というより、格好の間食として庶民に愛され、それは今も続いている。商品としてはふかし芋が先で焼き芋が後だったらしいが、焼き芋は幕末の江戸の人気商品だった。
「江戸市中町家のある土地にして、冬分に至れば焼芋店のあらぬ所はなし。また町々木戸際なる番太郎の店にては、必ず焼芋を売る。総じて焼芋屋は、御外曲輪・見付御門外御掘端にある焼芋屋は必ず店大きく、丸焼焼芋と印したる看板行燈も巨大なり」
『絵本江戸風俗往来』の記述で、同書はこの後、大きな店のものは味が悪い代わりに値段が安く、日本橋近辺の家が立て込んだところの店は川越の本場物を仕入れているので甘く香りもよいが高い、とも記している。
このサツマイモ普及の恩人昆陽は昭和6年(1769)72歳で没し、目黒不動の瀧泉寺に葬られた。今、本堂裏の通りの通りを山手通りの方へ行くと墓地があり、「甘藷先生墓」と刻まれた墓は国の史跡となっている。
(掲載号:12月20日号)
