週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

博愛社 日本赤十字 『婦人従軍歌』

 明治の歌人、加藤義清は御歌所寄人を務めたが、近衛師団軍楽隊の楽手でもあった。明治27年 (1894) 日清戦争のさなかに、新橋駅から出征する将兵を励ます軍楽演奏に参加した。このとき加藤は隊列のなかに白衣の凛々しい看護婦の一群を発見して感動した。そこから歌がしぜんに生まれた。

 火筒の響き遠ざかる 跡には虫も声たてず 有名な 『婦人従軍歌』 で、軍歌というよりも愛唱歌としてその後も永く親しまれている。それは歌詞が 「心の色は赤十字」 と締めくくられている通り、敵味方を問わずに疾病者を温かく看護する心が人の胸を打つからだろう。

 作曲にあたったのは、 『勇敢なる水兵』 などで知られる奥好義である。奥もまた、雅楽部の出身ながら逸早く洋楽を吸収した俊才だった。

 赤十字の活動は、1853年のクリミア戦争の際のナイチンゲールらの救護活動に端を発して、1863年 (文久3年) まずスイスに組織が創立された。1867年のパリ万国博覧会のとき、第一回赤十字国際会議が開催されるとともにその活動ぶりが展示された。たまたま見学した佐賀藩の佐野常民らはこれに強い感銘を受けた。

 明治10年、九州で西南戦争が起こったとき、政府の元老院議官だった佐野は有志と協力して博愛社を結成、敵味方の別なく救護に当たった。これが明治20年に日本赤十字社と改称され、佐野はのちに社長に就任している。

 最初の博愛社病院は飯田町 (千代田区) に建設されたが手狭になったため、同24年 (1891) 渋谷区広尾4丁目に新病院が開設され、これが現在の日赤医療センターに発展している。日清戦争の際には、ここから救護隊が広島の陸軍予備病院に出動したわけである。

(掲載号:02月17日号)