週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

水難を 避けた 居木神社

 大崎ニューシティの建設で面目を一新したJR山手線大崎駅の東側に比べ、反対の西口一帯は昔の大崎の面影を残している所が少なくない。東西の対照の妙が、大崎の魅力といえるかもしれない。

 その西口駅前にあるニュー大崎ビルの裏に回ると、居木神社の参道が小高い丘上に伸びている。参道に隣接している寺は、同神社の別当寺だった観音寺である。丘上の居木神社は、今は大崎の鎮守さまだが、元々は旧居木橋村の鎮守だった。

 居木橋村については改めて紹介するが、今も大崎1丁目と北品川5丁目の間を流れている目黒川に居木橋が架かっている。この橋にゆかりの村で、明治になってから縄文時代の居木橋遺跡が発掘されている。

 居木神社は、別当寺と共にそこの目黒川右岸にあった。しかし、神も仏も水難には勝てず、目黒川の洪水を避けて寛文年間 (1661−73) に西方の台地の現在地に移ったと伝えられている。

 神社の創建は不明だが、居木橋村にあった当時は 「雉子明神」 または 「雉子ノ宮」 といわれていたという。移転の際、村内に別に祀られていた貴船・春日・稲荷の各明神と子ノ権現の4社が合祀されて 「五社明神」 と改称され、明治5年、現名になった。

 昭和5年に立てられた社殿は戦災で焼け、現在の社殿は同53年に復興したものだが、境内には江戸時代の石像物が幾つか残っている。正面参道の鳥居と御手洗の鉢は、いずれも寛政4年 (1792) に奉納されたものである。

 正面石段左手の斜面を見ると、ごつごつした黒っぽい石で覆われている。品川神社の富士塚「品川富士」のような目立った存在ではないが、昭和8年に築かれた富士塚で、東京の富士山信仰には根強いものがある。

(掲載号:03月02日号)