週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

赤ずくめ 岩谷天狗と 孫の森赫子

 江戸時代には女性の舞台出演が禁じられていた。歌舞伎は出雲のお国という大女優が原型を作ったのに、寛永6年(1629)幕府が女優を舞台から締め出したあと女形という職分の男優が女に扮することになった。だから明治になると、西欧と同じように女役者が舞台に立つべきだという声が高まった。

 <女の俳優を女優と称した最初の人物が誰であるかは、今のところ実証できない>

 しかし、戸板康ニ『物語近代日本女優史』は、明治20年代後半には女優という言葉が定着したと述べている。

 明治44年に東京・丸の内に開場した帝国劇場は、当初から女優劇を上演するために女優の養成所を付設し、第1期生の森律子、村田嘉久子、などが脚光を浴びた。 

 律子は明治の政界で活躍した森肇のニ女で、いわば「良家の令嬢」だったが、女優になったことで、母校の跡見女学校を除名されている。長女の政子は「天狗煙草」の岩谷松平の長男に嫁し、その娘の赫子がのちに律子の養女に入り女優として活躍した。

 森赫子著『女優』に、岩谷松平の奇行が描かれている。<私はその頃『岩谷天狗』の屋号で銀座に煙草の店を持ち、《税金わずか30万円》と看板をかかげ、赤い馬車に乗り赤い着物をきて、家まで赤く塗っていた変り種のお爺さんの住む、東京渋谷の猿楽町の邸に生まれた。お爺さんの跡取息子のお父さん(松蔵)のところへ、森家からお母さんが嫁いで来て、その6人の子供の4女として、私が生まれたのである。ちょうど家を赤く塗り変えた年に生まれたため、赤いという字を2つ並べて私を赫子と命名したのはお爺さんであるらしい>

 松平は、煙草から養豚業に乗り換えたが、時期尚早で成功しなかった。

(掲載号:03月16日号)