週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

戦国武士の心を伝える広尾の祥雲寺

 織田信長が豊臣秀吉の功を賞して愛馬一頭を贈った。秀吉はその名馬をすぐ黒田官兵衛(如水)に与えた。戦功はすべて官兵衛の謀にあったというのだ。ところが、官兵衛はこれを家来の母里太兵衛にやってしまった。太兵衛の武勇に勝因があったというわけである。部下の心をつかもうとする戦国武将のテクニックがよく出ている。

 この母里太兵衛は民謡黒田節のなかの「日の本一の此の槍を飲みとる」豪快な武士で有名だ。秀吉幕下の智将といわれた黒田如水は、秀吉死後の天下は徳川家康と見抜いて、関ヶ原の合戦には息子の長政とともに家康方に就いた。このため、長政は筑前福岡藩五十二万石の領主となった。

 長政にもエピソードは多い。如水の嫡男であるにもかかわらず職場では常に第一線に立った。如水も長政も、それを当然とした。黒田軍団が精強を誇った理由でもある。「名将言行録」(岩波文庫)には、こんな話も出ている。長政は参勤交代ごとに道を替え、旅亭を定めなかった。旅亭は、広い道に面し、便利なところを選び、火の用心を厳しく命じた。絶えず職場の心がけでいたというのである。

 その黒田長政の墓所が、広尾の祥雲寺(渋谷区広尾五の一の二一)にある。地下鉄日比谷線の広尾駅から歩いて五分ほど、繁華な商店街に接するところだが、元和九年(一六二三)開山という名刹である。山門をくぐると、すぐブロック石の塀に突き当たる。その塀をぐるりと回った奥に本堂という配置が変わっている。

 聖心女子学院は明治四十一年に創立されたが、女子大学が創設されたのは昭和二十三年のことである。久邇宮邸地は戦後国有化、民有化と変化したが大学に最適の校地として関係者が努力した結果という。太平洋戦争中にかろうじて焼け残った旧久邇宮邸の玄関と車寄せが、真新しい洋風建築の校舎のゲート部分を威風堂々の姿で飾っているのは興味深い。

 この配置も開基の黒田家の意向で、戦時には寺も戦闘の砦になるのだという。いかにも戦国武将の菩提寺らしい。

 広い墓地の中央部に長政はじめ黒田家代々の墓がある。長政の墓には「興雲院殿前大中大夫筑州都督古心道大居士」とある。

(掲載号:04月13日号)