週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
塩かけ地蔵の安楽寺
日本諸国社号等標石群などがある徳蔵寺下の広い道路の西側歩道を南下して目黒川に架かる谷山橋を渡って山手通りを横切った先の横丁を西に入ると、西五反田5−6−9に安楽寺が建っている。
戦国時代の弘治2年(1556)開山といわれる天台宗の寺で、かつて本堂裏の池の周囲に萩が繁っていたので、「萩寺」とも呼ばれた。今その面影はないが、境内には徳蔵寺同様珍しい石造物が保存されている。
それらは本堂に向かって左横に配列されているが、まず目に付くのは下半身だけが風化したように細くなっている地蔵像で、足元にはポリ袋入りの塩が供えてある。「塩かけ地蔵」と呼ばれているお地蔵さまで、願をかける者は足元に塩を供える風習がある。
造立年代は不明だが、下半身が細くなったのは単なる風化ではなく永年の塩の影響で溶けたのではないかともいわれている。ともあれ、徳蔵寺の「塩地蔵」と共に五反田のお地蔵さんは塩が好物のようである。
地蔵像の隣には、堂に祀られている塚がある。権八・小紫の連理塚で、権八は鈴が森の項で紹介した歌舞伎の人気者、白井権八のことである。実説の権八は姓が平井で、芝居の二枚目役と違ってなかなかの悪党だったという。
しかし、その恋人の遊女小紫は悪党にはもったいないほどの純情な女性で、権八の処刑を悲しんで後追い自殺をしたと伝えられる。二人の恋物語は歌舞伎にもなっている。連理塚は二人の供養のために下目黒の明王院に建てられたものだが、同寺が明治初めに廃寺になったため、安楽寺が引き取った。
本堂横には、庚申塔など八基の供養塔も並んでいる。七基は元谷山橋脇にあったもので、目黒川の改修工事でここに移された。
(掲載号:05月04・11日号)
