週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

天性の画才と飽くなき研鑽 高橋由一≪鮭≫

 慶応2年(1866)、幕府の開成所(東京大学の前身)に出仕していた高橋由一は、横浜に英人画家チャールズ・ワーグマンを訪ね、西洋画の手ほどきを乞うた。由一は39歳だった。

 佐野藩(栃木県)の武士の子として江戸に生まれ、ほとんど独学で画の修行をしてきた由一だったが、西洋の油彩画を見て衝撃を受け江戸から歩いて横浜へ出かけたのである。近代的な交通機関のなかった当時としては当然のことだったが、ワーグマンに入門後も江戸から横浜までの徒歩通学が続いた。

 天性の画才に加えて努力も人並み以上だったから、由一の画業は異文化のなかで突然開花した徒花のようにも見える。わずか六年後の明治五年に制作された≪美人(花魁)≫を評して、坂本一道(新潮日本美術文庫『高橋由一』)はこう書いている。
<日本人が油絵具という素材によって、重厚な絵肌の輝きと色彩の美しさを実現した記念碑的作品といえるであろう>

 明治に入って開成所は大学南校と改称し、由一は画学掛教官に任命された。そのころ吉原稲本楼の小稲の肖像を描いていた異色作である。

 その後も旺盛な画作と熱心な研究が続き、名作≪蛙≫(重要文化財、明治10年)など多数の作品を残している。とりわけ印象的なのは晩年の研鑽ぶりで、明治9年に工部美術学校教師として来日したイタリアの画家フォンタネージを訪ね、親しくイタリア系の新しい技法を学んでいるという。この年、由一はすでに49歳であった。

≪蛙≫については、洋画黎明期の作品として「あまりにうますぎる」といわれてきた。しかし、坂本氏は技法の精緻な検証で由一の実作であることを解きあかしている。

 由一の墓は、渋谷区広尾の祥雲寺にある。

(掲載号:05月18日号)