週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
玄冶店の 大家さん 岡本玄冶
江戸時代の広尾は、麻布の西に広がる行楽地で、将軍の鷹狩りや市民の土筆つみ・月見の里だった。だから広尾原には土筆が原の別名もあった。
のどかな台地は都心にも近く、大名の下屋敷に格好の場所だった。尾張屋版の切絵図で<麻布>を見ると、右下つまり東南部に祥雲寺(渋谷区広尾)、天現寺(港区南麻布)があり、そのまわりに諸大名の下屋敷が並んでいる。
日赤医療センターや聖心女子大学は、譜代の名門堀田備中守(佐倉藩・千葉県)の下屋敷だった。麻布側では都立中央図書館のある有栖川宮記念公園が南部美濃守(盛岡藩・岩手県)、フランス大使館が戸沢上総介(出羽新庄藩・山形県)ドイツ大使館が酒井内蔵助(幕府百人組組頭)の下屋敷となっている。
絵図をよく見ると、祥雲寺のすぐそばに医師、岡本玄冶の下屋敷もある。玄冶は将軍の侍医で、千石をとっていたというから殿様並である。初代は家元格の曲直瀬玄朔に入門して頭角を現し、秀忠、家光の侍医を務めた。
とくに家光が痘瘡をわずらった際、そのころ権勢抜群の春日局の反対を押し切って酒浴という療法を採って成功したという。酒浴とは、米のとぎ水に酒を加えた湯で患部を洗う酒湯のことだろうか。
もっとも玄冶の名は、切られ与三郎の登場する歌舞伎の舞台「与話情浮名横櫛」の方で有名だ。あの玄冶店。実際に中央区日本橋人形町にあった長屋で、かつて岡本玄冶の拝領屋敷があり、家主でもあったという。切絵図の<日本橋北>には「ゲンヤタナ」と書きこまれている。
祥雲寺には、曲直瀬玄朔やその娘婿にあたる岡本玄冶など一門の墓所、また江戸時代の常磐津節開祖である常磐津文字太夫、明治の初代気象台長荒井郁之助など文化人の墓が多い。
(掲載号:05月25日号)
