週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

玄朔こと道三 日本最初の カルテ残す

 日本で最初のカルテといわれるのが『医学天正記』。曲直瀬玄朔が、慶長12年(1607)にまとめている。

 玄朔は朝廷の侍医だった。当時はむろん京都である。だから、こんな記録がある。

 天正11年(1583)正月2日。正親町天皇(67歳)がにわかに中風を発し、全く人事を識らず、痰涎盛んにして、鋸をひくが如きいびき声をされる。全身が熱して温かく、御脈は浮かんで緩く・・(さまざまの薬餌に効がなく、勅命を受けた玄朔の薬の調合で回復された)。

 最初に進上したのは蘇香丹を生姜の汁で溶いた薬だったという。矢数道明氏の研究では、蘇香丹の処方に、沈香、丁子、木香、白檀、麝香、龍脳、蘇香油蜜など15種の漢方薬の名が挙げられている。『医学天正記』は、このように玄朔自身の天正から慶長までにわたる診療記録で、その症例は345を数え、登場人物は天皇をはじめ信長、秀吉、家康、秀忠から、毛利輝元など諸大名、さらに下女、下男に及ぶ。400年前の貴重なカルテというだけでなく、史料的価値も極めて高い。

 玄朔は、通称道三。2代将軍秀忠の信任が厚く、京都から江戸に招かれ、江戸城に近い大手町に屋敷を拝領した。屋敷のあった町がやがて道三町と呼ばれるようになり、屋敷前の堀や橋が道三堀、道三橋と名付けられた。道三堀は明治42年に埋め立てで消えた。現在の新大手町ビルのあたりになる。

 玄朔はまた広尾にも広大な屋敷地を拝領していた。それがいまの祥雲寺の寺地になったという。

 祥雲寺は筑前福岡藩主・黒田長政の菩提所で、はじめ赤坂溜池の藩邸内に建立されたが、寛永6年(1629)麻布に移転、同8年、火災の厄に遭って現在地に移ったという。

(掲載号:06月08日号)