週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

江戸の 渋谷の 蛍狩

 江戸後期の儒学者、松崎慊堂はその気骨で知られている。肥後の出身で、幕府の昌平釁に学び、師の林術斎に認められて掛川(静岡県)藩主に仕えた。出身地の肥後・細川家がその盛名を聞いて招いたが固辞した。掛川藩主、太田資愛の知遇を裏切ることはできないという理由だった。

 ところが、その藩主資愛の死後、実子をさしおいて養子が跡を継いだため、慊堂は再三諫言したが容れられなかった。慊堂は掛川藩を去った。

 幕末の洋学者・渡辺崋山は門人だった。崋山が蛮社の獄に連座したときには、幕府の目を恐れず赦免運動に奔走している。

 慊堂は江戸の羽沢村に住んで門弟を教えた。中国古代の石経を尊重して、そこを石経山房と名づけたが、いまの渋谷区東4の9あたりという。常陸宮邸や国学院大学に囲まれた閑静な住宅街で、渋谷区立白根記念郷土文化館の所在地が目印になっている。

 羽沢の地名の由来は明らかではない。羽田が赤土を意味する埴田から出たとするように、埴沢の可能性もある。近くの渋谷川は、港区に入って古川と名を変える。古川には赤羽川の別名もある。赤羽も赤埴と関係があるようだ。

 慊堂には、晩年の20年にわたる日記がある。その「慊堂日暦」の文政11年5月3日(1828年6月14日)の項に渋谷川での蛍狩の記事がある。(原文は漢文)
  <夜渋谷川ニ蛍ヲ観ル。甚ダ奇ナリ>
 同日10日にも<渋谷川ニ游ビ蛍ヲ捕ル>とあるから、慊堂はこの周辺のウォーキングを楽しんでいたようである。

 明治に入っても、渋谷川にはいろいろな川魚が住み、カワセミが飛来したという。JR埼京線渋谷駅(最初の渋谷駅所在地)や恵比寿ガーデンプレイスの出現で周辺に活気が甦っている。

(掲載号:06月29日号)