週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
金升の素養は父母譲り
最後の戯作者鶯亭金升の話を続ける。祖父がペリー来航時の浦賀奉行、父は長崎奉行という幕府旗本の中でも名門の嫡男に生まれながら、時代とはいえ何故金升は武士とは対照的ともいえる道を歩んだのだろう。
母ふさに俳諧の素養があったことは『鶯亭金升日記』で読み取れるが、それ以上に金升が五歳のときに亡くなった父昌言がくだけた人であったことが同書でわかる。徳川将軍家の直参も時代が進むにつれ槍一筋から離れて文化面で活躍する人物も出てくる。蜀山人大田南畝などがよい例だが、金升の父もそんな気風を持っていたようである。
明治維新後間もなく、昌言兄弟三人はこんな相談をしてそれぞれ実行したという。
「こんな時は真面目に考え込んで居たら、気が狂うかも知れない。それよりも二三年長唄の稽古をして浮世を忘れるに限る。そして世間が静に落ちついて来たら、真面目な仕事をして余暇に芸事を楽しむが宜からう」
この後、昌言は工部省の役人になる。旗本時代から滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』の愛読者だったようで、金升も幼い頃その素読をさせられ、以来、生涯を通じての座右の書となった。遊芸、文人の素養は父母から伝えられたといってよいだろう。
これに加えて、武士らしい硬骨さも持っていた。明治二十二年から書き始めた『むだ雅記』と題する日記は六十余年に及び、没後、早大演劇博物館に寄贈された。『鶯亭金升日記』は、その『むだ雅記』から東京の変遷、演芸界の動きに重点をおいて編集されたものである。
金升が眠っている東五反田の本立寺には、落語家で喜劇俳優の柳谷金語楼(一九〇一−七二)とその弟の落語家昔々亭桃太郎(一九一〇−七〇)の墓もある。
(掲載号:08月17日号)
