週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

江戸の風 渋谷氷川社 相撲興行

相撲の番付が縦一枚の木版刷りで発行されるようになったのは宝歴七年(一七五七)からだという。全力士が東西に分かれ、序列が一目でわかる便利なもので、このころ江戸相撲が強さでも上方相撲を上回るようになり、江戸っ子の人気を呼んでこんな工夫も生まれたらしい。

 渋谷氷川神社(渋谷区東二丁目)の秋の祭礼での相撲興行がいつから始まったのか記録はない。しかし、江戸後期には近郷だけでなく、江戸の町からも見物が集まり、菓子や酒肴を商う商人が店を並べる賑わいを見せている。

 プロの力士の出場は稀で、近在の力自慢の取組だったようだが、近くの羽沢(いまの渋谷区東四の九)に住んでいた儒教学者の松崎慊堂は、晩年の生活を詳細に記録した日記『慊堂日暦』に九月二十九日の氷川神社の祭礼を毎年のように書きとめている。

 天保三年(一八三二)には、<九月二十九日 晴 温。氷川社の祭りにて、一村これが為めに喜色あり、墟落は市をなし、都城の人来り観る。例として相撲戯あり>

 また天保六年の同日。
<天陰、氷川社秋祭。昨 雨の故を以て喧騒甚だしからず。然るに書生輩は潜かに出て相撲を見る者あり>

 『江戸名所図会』の挿絵にも氷川神社の相撲場の一画が土俵を中心にはっきりと描かれている。戦後もしばらくは青少年相撲大会が賑やかに開かれたが、最近では地区の少年相撲大会が夏休みなどに開催される程度という。

 番付といえば、長者番付、銘酒番付、高層建築番付などの見立て番付も人気がある。天保二年に出た儒者番付にはトップの東大関に松崎慊堂、関脇に佐藤一斎、西大関に猪飼敬所、関脇に頼山陽という順番である。これを知って慊堂はまんざらでもなさそうだったとか。

(掲載号:09月07日号)