週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

品川区と縁の深い鶯亭金升

 品川区東五反田の本立寺に眠る最後の戯作者鶯亭金升、本名長井総太郎は、生前も同区と縁の深い人だった。太平洋戦争中の甲府疎開など八十六年の生涯で二十回も変えた住所のうちには、大崎や品川も含まれている。

 それより「大正より昭和にかけて全国花柳界の唄を随分作つたが今も折々頼まれて作つて居る。長唄も多く作り清元、常磐津、小唄、何でもやってみた」と、最後の著者の『明治のおもかげ』の「巻末にしるす」にあるように、品川区内でも特に五反田の花柳界からの依頼で多くのご当地ソングを作っている。

 『鶯亭金升日記』から拾いだしてみると、「五反田音頭」「新曲五反田踊」「五反田盆踊」「新曲月の宿露五反田」「新曲五反田盆踊」などがある。このうち「五反田音頭」は三種、「五反田盆踊」は二種作っている。

 この中で昭和二十四年に作詞した「五反田音頭」は、花の都はな、今は平和な東京都盛る五反田長閑な町よ、と戦後間もない時代を偲ばせる。この他「品川新曲」なども作っているが、「大井の聖天さま」として親しまれている東大井三丁目の大福生寺には金升の歌碑が建っている。

 『鶯亭金升日記』昭和三年三月十三日の記述に『都新聞』の切り抜きとして「鶯亭金升宗匠の還暦祝いに門下の升風会で、大井町土佐山歓喜天境内に情歌の碑を建設、十六日除幕式」とある。その情歌、つまり都々逸は「花は笑顔のおもてに咲いて月は心の裏に澄む」と刻まれている。

 金升の門下には、日本の近代劇運動である自由劇場の創始者小山内薫とその盟友の二代目市川左団次がいて、それぞれ東亭扇升、惣亭芸升と名乗って雑俳作りに励んでいた。

 共に二十代そこそこの頃で、二人の結びつきはその頃にできたのかもしれない。

(掲載号:09月21日号)