週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

平安時代 創建の袖ヶ崎神社

 鶯亭金升や柳家金語楼兄弟が眠る東五反田の本立寺参道前の桜田通り(中原街道)を少し高輪寄りに進むと、同じ側に小さなお宮が建っている。袖ヶ崎神社で、うっかりすると神社とは気付かないほどの地味な存在だが、その歴史はなかなか古い。

 平安時代末の保延三年(一一三七)京都の稲荷山から稲荷大明神を勧請したと伝えられ、元は忍田稲荷といった。近くの雉子神社や宝塔寺の創建は十五世紀の室町時代、本立寺はそれより一世紀後の安土桃山時代末期の開山だからこの辺りの寺院の中では一番古い歴史を有している。

 幕末の切絵図「品川・白金・目黒辺之絵図」を見ると、本立寺に隣接して忍田稲荷と記入されている。また、この絵図には松平陸奥守、つまり仙台藩伊達家の下屋敷を始め、多くの大名や旗本の下屋敷も描かれている。

 忍田稲荷は、このような周辺の大名や旗本の信仰が厚かったらしい。江戸時代には何度か火災に遭っているが、延享二年(一七四五)の火事のときは伊達家が新社殿を寄進している。

 下って嘉永二年(一八四九)に建てられた土蔵造りの社殿には、名工伊豆長八(入江長八)の手になる「八岐の大蛇」の鏝絵があった。残念ながら、この社殿は戦災で焼失、現在の社殿は桜田通りの拡張で境内が縮小された昭和四十二年に建てられたものである。

 袖ヶ崎神社となったのは明治以降で、袖ヶ崎の名については『江戸名所図会』の宝塔寺「元三大師堂」の項に「この辺を大崎と云ふ。古へは海浜にて、この地より東の方品川までの間、袖の形に似たりとて袖が崎とも呼べり」と説明されている。

 またこの辺りは明治初期まで品川台町といい、大崎地区にありながら北品川に属していた。

(掲載号:09月28日号)