週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
若木町で育った国学院
戦後の考古学界で活躍した樋口清之・国学院大学教授は発掘現場に立って、ユニークな文明論を展開した。
著書『梅干と日本刀』(祥伝社黄金文庫)のなかに「ズボン着用の古代人が、なぜ着物を創ったか」の論がある。
<石器・縄文時代の土偶や埴輪を見ると、当時の日本人は、中国服のようなズボンを穿き、詰袴のような上衣を着て衣を着ていたと考えられる。これは北アジアの草原性衣服の特徴と合致する>。そんな日本列島に稲作が伝来し、稲作技術といっしょに、東南アジア系の貫頭衣が入ってきた。
<つまり、北方系の筒袖にズボンという密着衣服と、南方系の布に穴をあけて、頭を入れるような貫頭衣が日本で接触するわけである。これが第一段階であった>
稲作を始めた日本人は、そこで稲作労働に適した通気性のよい貫頭衣を採用した。
<ところが、日本人が南方系の衣服を原型のまま残したのは、フンドシと腰布(サリー)だけである。それ以外は、すべて便利なように変形させてしまった。上衣についても、袖を全部不要にするのではなく、北方系と南方系の衣服の折衷形である袖付貫頭衣を創り出した。これが着物の原型ともいえる小袖である>
渋谷区東四丁目の閑静な高台にキャンパスを持つ国学院大学には歴代研究者が収集に努めた考古学資料館があり、一般にも開放している。その入口では樋口博士の胸像が後進を温顔で見守っている。
国学院大学は明治十五年に創立された皇典講究所に始まり、当初は飯田町(現・千代田区飯田橋)にあったが、高等教育機関として発展、大正十二年に現在地に移った。構内に若木ホールなどの施設があるが、これは旧町名の若木町に因む。町名の由来はここに東京市の種苗園があったからだという。
(掲載号:10月26日号)
