週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

小説の神様志賀直哉と常盤松の家

 作家の志賀直哉と広津和郎の親交が心底からの信頼にもとづいていた一例として、阿川弘之著『志賀直哉』はこんなエピソードを紹介する。

 <予定の入金が遅れて、家を新築中の広津がやりくりに困り、「志賀さん、今あるかしら」、必要な額を告げたら、「ああ、あるよ」、即座に貸してくれといふのである。「それが君、都合のついた時入れて置いてくれればいいつて、印鑑ごと銀行通帳を渡すんだからね。世間ぢやこんなこと、普通やらないよ。ちよつと、普通の人はやらないことだねえ、君」>

 ほとほと感嘆の口調で広津が語っていたという。

 広津との交遊は、太平洋戦争中、同じ世田谷区内に住み、戦後には静岡県熱海での近所付き合いという偶然が重なり、しばしば文壇史を飾る話題になっている。

 同書によると、志賀直哉は「生涯に二十三回引越しをした。平均すると三年八ヶ月に一度の割合だが、実際はそのうち十回が大正初めの四年間に集中してゐる」とのこと。熱海住まいのあと、昭和三十年五月、東京・渋谷の常盤松(現・渋谷区東一の一二)に転居し、同四十六年十月、八十八歳で他界するまでの晩年をここで過ごしている。

 「高台で、静かで、環境もよく眺めもよく、二階建てにすれば、窓から遠く富士山が望める」という常盤松の土地が当時坪二万円だったとある。新居の設計を依頼されたのが谷口吉郎。直哉から「全く洒落っ気の無い、丈夫で便利な家」という話があって、谷口は「それが一番贅沢な註文なんですよ」と笑ったそうだが、配慮の行き届いた、しかも飾り気一切無しの新居に直哉は満足し感謝したという。

 毎朝、庭先を訪れる雀にパン屑をまいてやるなど人間味豊かな“小説の神様”像を同書は伝えている。

(掲載号:11月09日号)