週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

『羊の歌』 常磐松小 桜横町

 評論家の加藤周一は、大正八年(一九一九)未歳の生まれで、その半生記『未の歌』に次のように書いている。

 <一九二〇年代の末に、渋谷には環状線と市電のほかに、玉川電車や東京横浜急行電鉄や出来上がったばかりの地下鉄の終着駅が、集っていた。東京は環状線の外に膨張しはじめ、渋谷区の増加した人口に応ずるために、その頃新設された学校の一つに私は通っていたのだが、校舎は小学校としては珍しい鉄筋コンクリートで出来ていた>

 それが大正十四年十二月に完成した渋谷区立常磐松小学校(渋谷区東一の七)である。関東大震災を体験したあとだったので、小学校としては渋谷で最初の鉄筋(東京で三番目)の校舎だった。もっとも渋谷が東京市に編入されるのは昭和七年のこと、当時はまだ豊多摩郡渋谷町である。

 このあたりは閑静な高台で、幕末の嘉永六年(一八五三)薩摩藩島津家の土地となり、明治になって薩摩藩が皇室に返上し、御料牧場になっていた。その一部が払い下げられて小学校になったわけだが、かつて島津家が藩邸から金王八幡までの道に桜を植えたので、ちょうど小学校と八幡宮を結ぶ道が「桜横町」と親しまれていた。

 加藤は大正十五年四月に常磐松小学校の最初の一年生として入学しており、通学路だった「桜通り」が著書『羊の歌』のなかで美しく回想されている。

 加藤周一が渋谷区金王町に生まれた大正八年、十歳になった大岡昇平は同じ町の稲荷橋の近くの家から宇田川町へ引っ越している。翌年、三十七歳の志賀直哉は『小僧の神様』を発表しているが、後年加藤の通学路沿いの常磐松に住む。渋谷区にまつわる文学史の一断面である。

(掲載号:11月30日号)