週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
三代の三津五郎 月窓院に眠る
坂東三津五郎といえば、歌舞伎界ではなかなか重い名前である。江戸時代はさておき近代から現代にかけて活躍した三津五郎の中では、七代目の存在が一際光っている。彼は明治十五年、十二代目守田勘弥の長男に生まれた。
守田勘弥は江戸三座の一つ守田座の座主の名前で、役者を兼ねる人もいたが十二代目は明治維新後、浅草猿若町にあった守田座を都心の新富町に進出させるなど革新的な興行師だった。晩年は恵まれなかったが、明治の劇界に新風を吹き込んだ人だった。
その父と違って、七代目三津五郎は一生を歌舞伎役者として通した。小柄な体で、声量もさほどなく、役者としては肉体的に決して恵まれていなかったが、古格を守った演技には定評があった。
日本舞踊坂東流の家元でもあり舞踊の技量は抜群で「踊りの神さま」の異名を取り、昭和二十三年、日本芸術院会員となった。同三十二年九月東京・歌舞伎座での養子八代目三津五郎(当時蓑助)と助演の踊り『寒山拾得』の舞台で倒れて引退、その後文化功労者に選ばれ、人間国宝にも指定されたが、再び舞台に立つことはなく、同三十六年十一月四日死去した。
八代目は明治三十九年生まれで、小山内薫等の新生演劇に参加するなど波瀾の青年期を過した。なかなかの理論家で著書もあり、晩年は人間国宝にもなって主に老け役や敵役で活躍した。ところが、京都・南座に出演中の昭和五十年一月十六日、フグ中毒で急死してしまった。
九代目は八代目の娘婿で、脇役や踊りの名手として活躍したが、昨年四月一日、六十九歳で亡くなった。来年一月には長男八十助が十代目を襲名する。
三人の三津五郎は、上大崎の増上寺子院群の一つ月窓院に眠っている。
(掲載号:12月07日号)
