週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
清岸寺 祐天上人 手植えの桜
七、八、九代三人の坂東三津五郎が眠る月窓院の墓地は隣接する同じ増上寺子院群の一つ清岸寺の山門をくぐるとすぐ右手にある。まるで清岸寺の墓地のようだが、同寺の墓地は天保十二年(一八四一)建立の本堂に向かって左側に広がっている。
その墓地には徳川将軍家の旗本松平家累代の墓がある。七代目で砲術に優れ、幕末に講武所奉公や軍艦奉公などを歴任した乗厚(履堂)もここに眠っている。
山門の左には、祐天上人手植えの桜と伝えられる古木がある。高さ約七メートル、幹回り三メートルで推定樹齢は二百五十〜三百年、種類不明となっているが、里桜の一種ではないかといわれ、品川区の天然記念物に指定されている。
祐天上人は江戸時代の高僧で、徳川五代将軍綱吉の生母桂昌院が深く帰依し、宝永元年(一七〇四)六十八歳のとき小石川伝通院の住職となった。六代家宣の信任も厚く、正徳元年(一七一一)芝増上寺第三十六代の住職に推挙され、大僧正に任じられた。
四年後に隠居して享保三年(一七一八)七月十五日、八十二歳で死去した。この引退死去した地に、彼の遺言によって高弟祐海が建立したのが目黒区の名刹祐天寺である。また祐天上人といえば、下総羽生村(現茨城県水海道市)の累伝説で知られている。
同村の百姓与右衛門の妻累は顔が醜い上に嫉妬深く、遂に鬼怒川堤で夫に殺されてしまう。累の怨念は与右衛門一族に祟るが、近くの寺で修行していた祐天上人の祈りで解脱し、祟りが止む。
この伝説は歌舞伎の怪談に脚色されている。中でも『東海道四谷怪談』の作者として有名な四代目鶴屋南北が書いた『法懸松成田利剣』序章の踊り『色彩間苅豆』は通称を『累』といい、今でもよく上演される。
(掲載号:12月14日号)
