週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

初台に残る三宅雪嶺の『同時代史』

 明治・大正・昭和の三代にわたって活躍したジャーナリストの三宅雪嶺は、自分が生まれた万延元年(一八六〇)から八十五歳で他界する昭和二十年までの記録を『同年代史』として書き残した。

 同書が興味深いのは、年代記ふうに政治経済の動きを追いながら社会風俗や文化の面にも目くばりを忘れていないところで、西南戦争のあった明治十年の頃では、西郷隆盛の事績を記したあと、この年三十二歳で薨去された静寛院宮(十四代将軍家茂の夫人)を悼み、さらに歌人の加藤千浪の死に及ぶという具合で、いかにも新聞人の筆らしい。

 三宅は加賀藩の儒医の子として金沢に生まれた。本名は雄二郎、雪嶺の号は、日夜仰ぎ見た名峰白山からとっている。明治九年、東京開成学校(東京大学の前身)に入っており、西南戦争などの激動のニュースはその学生時代に見聞している。

明治十六年、東京大学文学部哲学科を卒業し、一時文部省編輯局(辞典・教科書などの編集を担当)に勤めたが、官吏生活になじめず退職した。鹿鳴館に象徴される欧化熱に反発して、志賀重昂、杉浦重剛らと雑誌『日本人』を発行し、日本や東洋の文化の再認識を説いた。『日本人』という雑誌名も雪嶺の命名といわれている。

夫人は、小説『藪の鶯』などで才媛と謳われた女流作家の田辺花圃で、英語を得意としたという。雪嶺も単純な国粋主義者ではなく、英国の文人ラスキンやカーライルの生き方を範としていた。

 大正九年から初台(現・渋谷区初台二の二七)に住み、昭和四年、当時としては斬新な鉄筋コンクリート二階建ての書斎・書庫を建築、文筆の城とした。設計は新鋭の今井兼次(のち早稲田大学教授)が担当しており、都史跡に指定されている。

(掲載号:12月28日号)