週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

啄木が見た 千駄ヶ谷の 与謝野夫妻

 与謝野寛の主宰で明治33年(1900)に創刊された雑誌「明星」は、若々しいロマンチシズムで歌壇に新風を吹き込んだ。

 岩手県立盛岡中学でも、文学好きの金田一京助(きんだいちきょうすけ)(のち言語学者)、及川古志郎(おいかわこしろう)(海軍大将)らが熟読し、下級生の石川一(はじめ)(啄木)にも貸してやった。及川は同級生の野村長一(胡堂、『銭形平次捕物控』の作者に「石川君をよろしく」と紹介している。

 伊藤整『日本文壇史』にはこんな一節がある。<石川一は明治35年の10月、数え年18歳で盛岡中学校の5年生だったとき、自家の池に咲く水草の花にちなむ白蘋という筆名で「明星」に詩を投稿したが、その月の末には中学校を退学して上京し、与謝野夫妻を訪ねた>

 当時、与謝野寛・晶子夫妻の新詩社は渋谷道玄坂近くにあった。啄木の日記に「先づ品子女史の清高なる気品に接し座にまつこと少許にして鉄幹氏莞爾として入り来る、庭の紅白の菊輪大なるが今をさかりと咲き競ひつヽあり」と調子の高い記述がある。しかし、啄木には経済的な余裕がなく、最初の上京は挫折した。

 鉄幹の方では彼の詩才を認め、新詩社の同人に推挙したうえ、筆名も弱い感じの白蘋よりもっと強い方がよいと助言し、啄木の名が誕生した。

 明治37年11月、与謝野夫妻は渋谷から千駄ヶ谷村(現在の渋谷区千駄ヶ谷1−23)に転居した。同41年春、北海道から上京した啄木はここにも押かけ、その日記に「本箱には格別新しい本が無い。生活に余裕のない為だと気がつく。与謝野氏の着物は、亀甲型の、大島紬とかいふ馬鹿にあらい模様で、且つ裾の下から襦袢が2寸も出て居た」と、当時の与謝野家の苦しい生活を遠慮なく書きとめている。

(掲載号:04月08日号)