週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
千駄ヶ谷の第4萩の家と森鴎外
与謝野寛・晶子夫妻は、渋谷駅近くに住んでいた。明治37年2月、日露戦争が始まると晶子は毎日のように出征兵士が渋谷駅から遠く中国大陸へ向かうのを見た。
晶子の長兄は秀才で、のちに東大教授を勤め電気工業界の権威となっているが、晶子の自由な生き方を好まず義絶していた。対照的に弟の籌三郎は大阪府堺市の実家で家業の和菓子屋を継いでおり、いつも姉を温かく迎えいれてくれた。その24歳の弟も応召して旅順攻囲軍のなかにいた。晶子の絶唱はこういう環境から生まれたのである。
〈ああをとうとよ君を泣く君死にたまふことなかれ 末に生れし君なれば親のなさけはまさりしも親は刃をにぎらせて人を殺せとをしへしや〉
この詩は明治37年9月の「明星」に発表されたが、あまりにも率直に出征兵士の家族の心情を歌いあげていたので、たちまち文壇に賛否両論が巻き起こった。与謝野夫妻が同年11月に渋谷駅近くから千駄ヶ谷へ転居した一因はそこにあるという評があるくらいである。
新居は「第4萩の家」(いまの渋谷区千駄ヶ谷1−23)と呼ばれ、「明星」の歌人たちがよく集まった。馬場弧蝶『明治の東京』によると、〈与謝野君のうちからの帰りに、森鴎外さんやその外の人々と共に、この道(当時の千駄ヶ谷駅前)を歩いたことがある。日露戦争の直後であった。森さんが軍刀の「つか」を握つて、こじりが土につかないよう引き上げて、気軽に人々と話しながら、ぬかるみをよけよけ歩いて居られた姿が今もなほありありと思ひ浮かべられる〉
軍医だった森鴎外は、日露戦争に第2軍の軍医部長として従軍しているが、与謝野夫妻との交遊は少しも変らなかった。
(掲載号:04月15日号)
