週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
岸田劉生草土社『切通之写生』
岸田劉生は、明治24年に東京の銀座2丁目で生まれた。父の岸田吟香はアメリカ人医師ヘボン博士の助手として日本初の和英辞典『和英・林集成』を編集し、ヘポン直伝の目薬「精騎水」を売る薬局を銀座に開店していた。
幼時から画才に並々でない天分を見せたが、わずか14歳のときに父と母があいついで他界するという不幸に見舞われたため、ほとんど独学で画業を続けることになった。たまたま武者小路実篤ら「白樺」派の作家たちと知り合って意気投合、西欧印象派の新風を伝える作品を次々に発表して画壇にデビューした。
岸田劉生といえば、長女をモデルにした『麗子像』が有名だが、このデビューの頃、家族だけでなく友人の武者小路、バーナード・リーチ(陶芸家)、木村荘八(画家)らを片っ端からモデルにして座らせ、1、2時間で仕上げている。いずれも貴重な肖像画として残っているが、当時は「岸田の首狩り」といって恐れられ、迷惑がられたという(富山秀男『岸田劉生』)。
岸田は大正2年10月、東京府下代々木山谷117(現・渋谷区代々木2-45付近)に転居した。同4年4月には近くにやや広い家を見つけて引っ越しているが、岸田がこの新居周辺に発見した新しい画題が東京近郊の開発風景だった。『代々木付近』『赤土の畑』『赤土と草』、さらに代表作『切通の写生』(大正4年11月)が生まれた。生々しい赤土と逞しい緑草に岸田の情熱が込められ、グループの名も草土社と名づけられたほどである。
いま、小田急線の参宮橋駅を降りて西参道を北へ新宿方向へ歩くと2、3分のところに「代々木3丁目交番前」交差点がある。ここを西へ折れる坂道があって、「切通しの坂」の木標(同区代々木4−23)がある。
(掲載号:05月20日号)
